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第9話 主治医

Auteur: 雫石しま
last update Date de publication: 2025-09-23 07:13:04

 医療費支払いや処方箋番号が響くロビー。白い壁には手すり棒が設置され、全面ガラス張りの中庭にはイングリッシュガーデンの小屋が建っていた。赤茶の瓦屋根、古びた木戸、黄色い薔薇の蔦、可愛らしい小花や青いハーブが風にそよいでいる。

「085番、叶さん、叶睡蓮さん」

「はい」

 呼び出し番号の紙を握っていたのは黒いワンピースを着て髪をハーフアップに緩く纏めた睡蓮だ。扉を三回ノックすると、柔らかく包み込むような男性の声が診察室へと招き入れた。

「失礼します」

「いらっしゃいませ」

「先生、患者にいらっしゃいませは可笑しいですよ」

「そうですね」

 銀縁眼鏡に自然なウェーブ、睡蓮とよく似た薄茶の髪、白衣に揺れるネームタグには呼吸器内科医師、田上伊月と印刷されていた。叶家に長年支える田上さんの孫だ。

「一昨日、発作があったそうですね。お母さまから連絡がありました」

「いやだ、お母さんったら」

「発作を起こす前になにかありましたか」

「雨に濡れて............少し走りました」

「雨ですか」

「子どもみたいですね」

「いいえ、そんな事はありませんが喘息は拗らせると長引きますから無茶はしないで
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  • 赦されない私たち あなたは私 私はあなた   エピローグ

     荘厳なパイプオルガンが響きマホガニーの扉が大きく開いた。蓮二の肘にウェディンググローブの指を添えた木蓮が深紅のバージンロードを静々と進んで来た。胸元が大きく開いた白銀のウェディングドレスは腰から裾に掛けてリボンが折り重なり、ヘッドドレスにカサブランカの白い花弁が咲き乱れた。「汝、和田 雅樹は、この女、叶 木蓮を妻とし、良き時も悪き時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」「誓います」「汝、叶 木蓮は、この男、和田 雅樹を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、夫を思い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻のもとに、誓いますか?」「誓います」 左の薬指に輝くプラチナの結婚指輪。荘厳なパイプオルガンが2人の門出を祝う。雅樹の離婚から3ヶ月という事もあり結婚式は近しい身内だけで挙げた。「返して」 木蓮が新居のマンションに移り住む荷造りをしていると部屋の扉が音を立てた。その声は睡蓮、扉を開けると仁王立ちでこちらを睨んでいる。木蓮が何事かと怯んでいると睡蓮は無言で手を差し出した。「な、なによ」 「返して」 「なにを」 睡蓮は段ボール箱から顔を出した焦茶のティディベアを指差した。「なに、あんたもう要らないって投げ付けたじゃない」 「九州に連れて行くから返して」 「分かったわよ、ちょっと待ってなさいよ」 木蓮が後ろを向いてしゃがみ込むと背中に温かいものを感じた。「ありがとう」 睡蓮が木蓮の背中を抱きしめていた。「ちょっ.......ちょっとやめてよ、恥ずかしい!」 「ありがとう」 「なんの事か分かんないけれど........どーいたしまして」 涙が背中を伝いしんみりしていると睡蓮は突然立ち上がった。「.......返して」 「なに、まだなんかあるの」 「そのくま、返して」 その指はベージュのティディベアを差していた。「なに、あんた執念深いわね」 「それは私のティディベアなの」 「はいはい、ベージュと焦茶抱えて九州に行きなさい」 木蓮はダンボールの奥からベージュのティディベアを取り出すとポンポンと形を

  • 赦されない私たち あなたは私 私はあなた   第30話 分岐点③

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  • 赦されない私たち あなたは私 私はあなた   第29話 分岐点②

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  • 赦されない私たち あなたは私 私はあなた   第28話 分岐点

     睡蓮は出勤する伊月の車に同乗し金沢大学病院を受診した。ピンポーン 「115番の方6番診察室までお入り下さい」 睡蓮の足は震えていた。伊月の書いた紹介状は女医の手に渡った。「えーー、叶 睡蓮 さん」 「はい」 「呼吸器内科の田上医師からの紹介状を頂きました、産科婦人科の森田です。以降担当させて頂きます」 生まれて初めて座る産科婦人科の椅子には程よい硬さのドーナツ型クッションが置かれていた。「よろしくお願い致します」 「はい、よろしくお願い致します」 ベリーショートヘアの溌剌とした雰囲気は木蓮を連想させた。「今回はどうされましたか」 「難病性気管支喘息患者の妊娠出産についてです」 「叶さんも、あぁ.......そうですね」 「はい」 元町はパソコンモニターの前でマウスをクリックした。程なくして睡蓮の通院履歴と病状、処方箋の一覧が表示された。「通院歴は...........長いですね」 「大丈夫でしょうか」 「発作も頻繁に起きていますね」 「はい」 規則的にリズムを刻む機械音、白い壁、行き交う看護師、医師の白衣。睡蓮にとって見慣れたはずの光景が全く違って見えた。「そうですか」 「内診致します。専用の下着を履いてお掛け下さい」 「はい」 壁一枚隔てた隣の診察室からは胎児が順調に育っていると診断され安堵する妊婦の声が聞こえて来た。背後に感じていた待合室の音が消えた 何処までも青い空、白い雲、睡蓮は大きく息を吸い込み和田家母屋のインターフォンを鳴らした。睡蓮の目の前には職務を切り上げた雅次がソファーに浅く腰掛け、震える指でカップソーサーをテーブルに置く百合の姿があった。「ブライダルチェックを行わなかった私の不注意でした」 「そんな..........ちゃんと調べたの」 睡蓮は深々と頭を下げたまま微動だにしなかった。「うちの跡継ぎはどうなるんだ」 「申し訳ございません」 「この事は雅

  • 赦されない私たち あなたは私 私はあなた   第27話 運命の一夜②

     暗闇でタクシーのハザードランプが点滅する。「ありがとう」 12階建のマンションを仰ぎ見る木蓮のショルダーバッグには810号室の鍵が入っていた。正面玄関エントランスで「8、1、0」のボタンを押すと雅樹の声がしてガラス扉が左右に開いた。(後悔はない) エレベーターホールに立つ木蓮の脚は震えていた。 街灯の灯りの下でタクシーのハザードランプが点滅する。「ありがとうございました」 山茶花の垣根を折れると5階建のマンションが小高い丘の上に建っていた。睡蓮の手には一泊分の旅行鞄、505号室のカーテンは開き逆光の中で伊月が睡蓮を待っていた。「5、0、5」のボタンを押すとガラスの扉が左右に開いた。(後悔はしない) エレベーターホールに立つ睡蓮はその箱の中に足を踏み入れた。 810号室、見上げたネームプレートにはWADAの4文字、最初に来た時には気付かなかったが木製のプレートにはヨットの模様が彫られていた。(.........セーリングが趣味だとか言っていたわね) 重い音が解錠を知らせ木蓮の心臓が跳ね上がった。「.......よう、久しぶり」「........よう、久しぶり」 雅樹の首元に残る柑橘系の爽やかな香りが木蓮を包み込み胸が締め付けられた。あの情熱的な夜を思い出す悲しさ。「入らないのか」「これ..........返しに来ただけだから」「そうか」 木蓮はショルダーバッグから810号室の鍵を取り出すと差し出された雅樹の手のひらに置いた。心許ない金属音が耳に残った。「じゃあ」「じゃあ」 木蓮は雅樹を振り返る事もなく背を向けた。愛おしい女性の後ろ姿を見送った雅樹は音もなく玄関扉を閉めた。力が抜けその場に座り込むとハタハタと涙が溢れて落ちた。カツカツカツと遠ざかるパンプスの足音。(..........木蓮) 耳を澄ませばエレベーターの扉が閉まるベルまで聞こえるような絶望感に襲われた。

  • 赦されない私たち あなたは私 私はあなた   第26話 運命の一夜

     白い部屋、眩しいLEDの蛍光灯、注射台の上に肘を着けた睡蓮は思わず顔を背けた。その苦々しい面持ちに注射針を腕に刺しながら看護師が笑った。「睡蓮ちゃんは本当に採血が苦手なのね」「血を見たく無いんです」「ほーら、どんどん採っちゃうわよ」「やめて下さい」「ほーら」「やめて下さい」 睡蓮と看護師が遠慮なく遣り取り出来るのは、睡蓮が如何に長期間この呼吸器内科に通院しているかを物語っていた。物心ついた頃にはこの部屋で吸入器を口に当て、レントゲン室の待合の椅子に座り、泣きながら採血を受けた。「あれ?おじいちゃん先生は?」 高齢の主治医は大学の教授になり目の前の椅子には幼馴染の《伊月ちゃん》が座り聴診器を胸に当てていた。「睡蓮さん、今日から私が睡蓮ちゃんの主治医ですよ」 伊月は喘息を患う睡蓮を助けたいが為に金沢大学医学部を目指し医師の資格を取得した。睡蓮が高等学校を卒業して以来の6年間を伊月は睡蓮の主治医、家庭医として寄り添って来た。「でも睡蓮ちゃん、残念よね」「......え、なにが残念なんですか」「田上先生、九州の大学に転勤になるんですよ」「.....転勤、転勤ですか!?」「そう、九州大学、栄転ね」 睡蓮は隣室で診察をしている伊月に向き直り、カーテンを思い切り開けてそれが事実なのかと問いただしたい感情に駆られた。「あっ!」 気が付けば椅子から立ち上がり、血管の壁を注射針が突いていた。「イタっ!」「あっ!駄目ですよ!動かないで!」「ごめんなさい」「痛かった?ごめんね、内出血するかもしれないわ、ごめんね」「いえ、私が悪いんです」 そしてこの突然の転勤については叶家でも頭痛の種となっていた。「まさかこんな早くに転勤になるなんて」「木蓮、伊月くんからなにか聞いていたのか?」「.......聞いて、ない」 木蓮も予想外の出来事に戸惑った。

  • 赦されない私たち あなたは私 私はあなた   第17話 千夜一夜

     雅樹が左手を挙げると吸い寄せられるように一台のタクシーが路肩に停車し後部座席のドアが開いた。思わず木蓮の足は竦んだ。「やめるなら今だ........乗らなくても良い」「やめないわ」 その手が助手席のヘッドレストを掴み座席の奥に腰を下ろした。ギシっ 座面のスプリングが軋み、木蓮の心臓は跳ね上がった。次いで雅樹が乗り込み後部座席のドアが静かに閉まった。「お客さん、何処まで」「西念の和田コーポレーションまで、支払いはチケットでお願いします」「はい、西念ですね」「なに、会社に行くの」「隣のマンションに俺の部屋があるんだ」ビビビビビビ その音に木蓮は飛び上がった。何が起きたの

  • 赦されない私たち あなたは私 私はあなた   第15話 談話室②

     ピンポーン ピンポーン <ご来院中の皆様にお知らせ致します。病院裏B駐車場、緊急車両出入り口付近に駐車中のお車は大至急ご移動お願い致します、繰り返します> 時折流れる館内アナウンスと人の騒めき。病院内の食堂はやや混雑し窓際のテーブルには2枚のトレーが並んでいた。「あんたがA定食?」「木蓮はB定食が良いって言ったじゃないですか」「アジフライ美味しそうね、半分頂戴」「じゃあ、木蓮のコロッケ半分交換して」「ちぇー」「ちぇーってどれだけ食べるつもりなの」「悪かったわね.........睡蓮みたいにか細くなくて」「本当に」 2人が箸でそれぞれの皿に取り分けていると恰幅の良い女性

  • 赦されない私たち あなたは私 私はあなた   第14話 談話室

     伊月は睡蓮の白いブラウスの上から聴診器を離した。「叶さん」「はい」「前回の受診、呼吸機能検査と血液検査の結果は悪くはありませんでした」「そうですか」 X線撮影のレントゲン画像を写し出し、眉間に皺を寄せて顎をなぞった。「今週に入ってから中程度の発作が2回」「............はい」「お薬は服用されていますか」「はい、飲んでいます」 それにしても顔色が優れない。伊月は呼吸器内科医師ではなく個人、幼馴染の田上伊月として声を掛けた。「睡蓮さん、この後お時間ありますか」「あ...........はい。あります」 伊月は腕時計を確認し顔を挙げた。「あと20分間で休憩に

  • 赦されない私たち あなたは私 私はあなた   第13話 結納

    大安吉日 秋晴れの空にトンボが飛んでいた。「あぁ、木蓮さんはソファに座っていて下さい」「はーい」 その日は朝から慌ただしかった。振袖姿の睡蓮が座敷の床間に花を生け、田上さんが床間の柱を磨きながら白木の台に赤い毛氈を敷いていた。紋付袴の蓮二が首を左右に振っている。「田上さん、ちょっとずれてないか」「こうですかね」「おお、良い感じだ」 美咲があらかじめ準備した「結納返し」を毛氈に飾り、睡蓮、蓮二、美咲は客間で和田家の到着を待った。バタン バタン レンガ畳みの坂の下にタクシーが到着し、門構えに人の気配が近付いた。「おやおや、木蓮さんお元気そうで」「............お陰

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